仏は永遠(とわ)に
月が隠れると、人びとは月が沈んだといい、月が現われると、人びとは月が出たという。けれども月は常に往して出没することがない。仏もそのように、常に往して生滅しないのであるが、ただ人びとを教え導くために生滅を示す。
人びとは月が満ちるとか、月が欠けるとかいうけれども、月は常に満ちており、増すこともなく減ることもない。仏もまたそのように、常に往して生滅しないのである。ただ人びとの見るところに従って生滅があるだけである。
月はまたすべての上に現われる。町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも、甕(かめ)の中にも、葉末(はずえ)の露にも現われる。人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。月そのものに変わりはないが、月を見る人によってその姿は異なる。仏もまたそのように、世の人びとに従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。
『 大般涅槃経 』
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苦しいことや辛いこと、悲しいことが続けば誰だって嫌になる。
信じていたはずの神や仏がどこか遠くに感じてしまうことも・・・
眠れぬ夜に見上げた星空、おぼろげに浮かび見え隠れする月夜の光。
なぜ生まれてきたのか、何のために生きているのか・・・そんな深い意味など分からないけれど、今、こうして生きている。
けっして楽しく嬉しいことばかりではないけれども、だらかこそ面白い。
明日何が起こるかわからない。 だからこそ、今日を、今を精一杯に、一生懸命に生きてみる。
合掌
※ 撮影:東大寺(奈良県)大仏殿(金堂)広目天(毘楼博叉)
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